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 そろそろ、ちゃんと見ること・読むことを、書くこと・描くことへつなげていくことが大事なんだと思った。



 最近、色々思うところあって、自分の根源的な部分に関する確信みたいなものを得た。つまり、「ああ、俺にはこれしかなかったんだな」という。
 そういう確信が、多分見ること読むことの姿勢、視線もまた、確たるものにしていくんだと思うんだけど。

 では、その「見ること・読むこと」をどう「書くこと・描くこと」に繋げていくか。

 この問題に、やはりぶち当たるのだった。これは、ずっと前から自分がぶち当たってきた課題でもある。
 
 どうにもここが上手くつながらない、そしてそれがつながらないから、語りだせない、語りだすものに力が宿らない。
 

 さて、近頃、それを繋げるための一つの予感(?)を持てた。忘れないためにちょっと記しておこうと思う。
 「見ること・読むこと」の確信の一つは、このように言える。

「それっぽい」では駄目なのだ。


 世の中には、「~ぽい」ものが、あふれてる、といっても別に過言ではないだろう。ファンタジー「っぽい」もの、ミステリー「っぽい」もの。いやいやもっといえば、映画「っぽいもの」、マンガ「っぽいもの」。
 
 べつに「っぽいもの」それ自体が「悪」というわけでもないと思う。そこには、多分当意即妙なライブ感が宿りやすく、連想的で、イメージ的なのかもしれない。そこに、一つ新たな価値が生まれる可能性がある。

 けれども、少なくとも自分がそれをすれば、ただ単に「それっぽいもの」に終始してしまう。退屈でチープ。安っぽく、頼りない。
 思うに、「っぽいもの」というものは、無自覚に、無意識に、たわいもない物語経験、人生経験を頼りに、語り「だせて」しまうものではないか。
 そんなに、珍しい人生を送っていない人間が、無自覚と無意識の奴隷であっては、「語りだせない」ということになりはしないか。

 では、どうするか。

 「っぽいこと」から離れ、根源、内奥、実存、根本(反転して、周辺、非存在などなども)へ分け入っていく。
 それしかない。
 
 たとえば、ある物語の登場人物を「読もう」と思ったら、その人物のありとあらゆる瞬間と、そこで起こる問題に分け入っていくだろう。 そうして初めて彼、彼女に触れられる(あくまで「触れられる」、だ。どうしたって、「辿りつく」というのはありえないのだけど。)

 ヒトの絵を描くなら、そのヒトがどういう人生を歩み、どう人格が形成され、何を愛し、何に憂い、何を憎み、何を許し、許さないか、そして、そうして歩んできた人生のこのときこの瞬間に、何を思い、どのようにカメラの前に立ちふるまいだすのか、それを考えること。
 それが、「存在を描くということ」。いや、もとい、そうして初めて「存在」になるのではないか。もとい、それが「実存」ということだ。
 「カレは、血が通い、肉を持った確かな存在なのだ」、という風に「描こう」としなければ、いつまでたっても描けない。

 そしてやはり、読むことと同様、そこまでしても、「カレに辿りつける」というわけでなく、不十分なものなのだけど。
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