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・今年はじめにツイッターで書いた駄文の、少々補遺したもの
・もう今は、ここからさらに考えが発展していってる気がするのだけど、とりあえず参考がてらに、このまままとめておく

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1、われわれが消費するとき、われわれもまた消費されてる
 消費されるのは、何もモノや作品やアイドルだけではないのじゃないか、というありきたりな考えが、ふと浮かんだ。
 私たちは「消費者」と呼ばれるけれども、そこには「消費する者」「消費される者」という二つの意味が内包されてる。

 つまり、われわれが何かを「消費する」時、われわれもまた、何かに「消費されている」。
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 つまらない言い方をすれば、「消費する」というのは資本主義の存続、つまり貨幣が頂点に立つシステムの奴隷、家畜として「消費される」という感じか。ふむ、家畜の牛たちが、おいしく飼料を消費し、それによって人間においしく食されてしまうシステムと似てる。


 「人々が、自分たちの生活を良くするために生み出したはずの神(市場の神、消費のシステム)が、まるで意思を持ったかのように、自身を存続させるためだけに人々を家畜にし、操り、振る舞い始める」という「関係」。


2、縁起・空・糸・ひも
 何となくここらから、最近気になってる仏教の「縁起」とか「空(sunya)」とかが連想される。全てのものが、常になんらかの関係の基に存在し、因果の糸を持っている。

 縁起とか空とか言う話から、「私はどこにもいない」という話も連想されていく。(あるいは、どこにでもいる)
 「空」とはemptinessであり、nothingnessであり、また、サークルでもあるらしい。サークル、0、円、輪でもある。つまり、「0」のように中心が穿たれている(中空)。ひもで空間が囲まれ、中心(のように思える空間)が現れる。
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 あるともいえるし、無いとも言える。まさに「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」。空は「実体としてあるのではない」もの、「色」とは「現象としてないのではない」もの。空は色であり(また色でなく)、色は空(また空でない)。
 

 そこからさらに、連想するものもある。これは、最近の自分の志向によるものだけど。
 たとえば、量子もつれとかの話。どう考えても繋がるはずのない何かが、時空を超越して、作用と反作用の関係を見せる。いや、「蝶のはばたきが、地球の裏でハリケーンに」、とかいう話の方が近いか。あるいは、「カオスは秩序の一形態」。
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 さらにいえば、メビウスの輪。裏であり、表でもあり、αであり、ωでもある。因であり、また果でもある。
 そして、そのどれでもない。「死がなくなったというなら、生もあるのだろうか。」


3、零(circle)のカミ
 神社の中心は穿たれてるらしい。そこには鏡や空っぽのハコが置かれてたりするだけで。中空、つまり中は「空」。神のおわすところ(というか迎えるところ)、カミクラ(神座)は中空。カミナツキ、移ろいゆく神たち。マレビト。
 また、鏡は、世界を反転させる。そこに写された像はまさしく、似て非なる「異界」。異界を映し出すための鏡であり、また異界そのものである鏡。
 カガミ、カミ、神、加実。「神」を文字通り、「雷で以って示す」者。すなわち、実りの神託・神示。 
 というわけで、1の中には何とか教などなどの神がいるけれど、0の中にもまた神がいるのかもしれない。
 0の輪という中空に宿る神を、河合隼雄は「無為」と呼んだ。「アメノミナカタヌシ」で、「ツクヨミ」とか。前者は「タカムスビ」と「カミムスビ」の中におり、後者は「アマテラス」と「スサノオ」の中にある。
 よって、「全は一」・・・なのではなく、「全は零」なのではないか。零は「空」だから。
 なぜか。
 0は、二つとそれ以上のモノを有している。0は、「偶数」と呼ばれる。これは、因と果を共に内包している。あるいは、こうともいえる。「ツクヨミ」の名を呼ぶとき、その言葉には必ず、「アマテラス」と「スサノオ」が想起される。無為ではあるが、「両義的」とも言える。
 これはキリスト教の「三位一体」とも通じてくるけれども、こちらの三位一体は直線的(だと、今のところ考えてる。)というのは、人(子)⇔キリスト(聖霊)⇔神(父)という直線で表記できてしまう。キリストは、父なる神と子なる人のスケープゴート的媒介者として存在しであり、そのために血を流し、汗を流し、つまり最も「行為を成した」者でもある。
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 だから、キリスト教は本当に「一体」なのであり、「1の神」。トライアド。
 一方で先ほどツクヨミとかを、「間にいる」と呼ばず、「~の中にいる」と言ったのはこういうこと。間にいる「媒介者」ではなく、ただ「中にいる」。circleの輪の中にある。

 これは、互いに尾を噛み合う2匹の蛇、「はてしない物語」のアウリンなのかもしれない。
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 カミは蛇身でもある。アウリンという紋章は、「2匹の実体ある蛇」によって、新たに「一つの空の空間」が生み出しいる。蛇が互いの尾を離せば、たちまち失われるあるようでない空間。実から虚が生まれ、虚は実になる。そして、「実虚」そのどちらでもない
 それは、ウロボロスの輪を否応なしに想起させる。ウロボロスは「全であり、一である」という世界。ただ一つしかない。始まりも終わりもない、完全なるもの。所詮は、自己完結、一人で完結するものでしかない。それは無垢の生まれたばかりの赤ん坊。
 はて、ウロボロス「的」なアウリンは、決してウロボロスではない。では、アウリンとは何か。

 「2匹の蛇」である。互いが互いの尾を噛み合うという「関係」。「汝の 欲する ことを なせ」と記されたそれ。「真の意志」を問うている。
 バスチアンの「欲すること」は、「愛すること」だった。自分ではない何者かを、愛すること。「関係」によって、「自分」(のようなもの)が見える。自分の中に相手を飲み込み、相手もまた自分を飲み込む。「自分」の中に「あなた」がいて、「あなた」の中に「自分」がいる。
 アウリンを形づくることによって生まれるモノ…あるいは、アウリン自体を可能にしているもののが「欲すること」、「願い」である。縁は起であり、起はまた縁でもある。アウリンの輪の中には、「願い」がある。
 というわけで、「ツクヨミ」も問う。無為だけど、無為にして、真の意志を問う。

 これも縁起につながる。もちろん「蛇」は実体があるように描かれている、という点で、違いはあるけれども。
 0というのは、途切れのない連続体で、ウロボロス的「原初(胎児)なる完全なる記号」でもある。そして、アウリンは、「彼岸たる完全な記号」なのかもしれない。
 ソシュールは、記号論を世に打ち出したとき、「シーニュ」という語を、仏教の「空(sunya)」を参照したのでは、と言われている。何故か。それは、ソシュールの発見したことばが、「差異の体系」だったから。「ある特徴を持つ(かつ、他にその特徴を持たない)」事柄を、一つの記号によってまとめあげ、かつ「他のものとは違う」と規定する仕組み。「主体や実体」という一なる意味を持ったことばなどなく、「他との差異の関係」によって、ただ恣意的に規定されたもの。これは、仏教の縁起そのもの。ヴィトゲンシュタインの言語ゲームも、然り。

 モネの睡蓮は日本でもすごく愛されているが、それは「水鏡」という、空と地を同一平面に融合させ、連続させるものに惹かれたからかもしれない。
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 イスラエル美術館所蔵の睡蓮の模写。
 水鏡となった水面に映る空が描かれている。天地の重なり合う場。黄昏、逢魔が時。世界像はにじみ、「異界」が、鏡写しに重なってくる。
 この作品は、そのにじみのほんの手前、(あるいは後の)静謐さと寂寞、緊張感のあるもの。神経質な筆致。世界の揺らぎを「そのまま」描ききるのでなく、「示唆」するもの。
 まさしく、今から「魔が来る」という緊張、あるいは、「ようやく魔が去った」という寂寞。
 黄と白の中に、わずかに織り込まれた赤。ダークな緑の中に、わずかに織り込まれた青。画面に、かすかな魔が息づいている。


4、申楽・舞台・劇・見ること
 神と人との交信(これも「関係」)の場は、歌舞という儀式が常だった。それは「神楽」と呼ばれた。その変奏が「申楽」。文字通り、示す者(カミ)のいない、娯楽(と、ある意味神との交信の術を伝承するための)歌舞「申楽」。
 申楽といえば、やはり世阿弥陀仏が描いた『風姿花伝』のお話になる。「秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず」。
 申楽は、演劇の一つ。「物学(ものまね)」という、自分ではない者、神や鬼の人ならざる者に、いわば「変身」することによって、花と成り、風情と成る。
 「誰そ彼」を成す者たち。舞台は、逢魔が時の現場ともなっている。
 「似せんと思ふ心なし」。理を超えた先、達人ともなれば、いつしか「物学(ものがく)」ではなく、「そのもの」になる。そうして舞台は、演舞者たちの肉体の表現でもって、そのまま異界へと通ずる。
 神のいない舞台で、神が体現される。
 舞台は、そのまま異界への門となり、異界を映し出す現世の鏡ともなる。

 「劇」とは、見るものと見られるもの関係性で、はじめて成立するもの。舞台を見つめる「観測者」がいる。
 よく言ってることだけど、人間の目の受ける情報量に対し、脳の情報処理能力は、その10000分の1にすぎない。何を見るかは、見る人の選択。
 あるいは、「世界は、誰かが見ることによって、初めて一つの形態を成す」とも。
 世界は、自分を写す鏡でもあり、自分もまた、世界像を、写し出す鏡でもある。

すべての見えるものは、見えないものにさわっている
聞えるものは、聞えないものにさわっている
感じられるものは、感じられないものにさわっている
おそらく、考えられるものは、考えられないものにさわっているのだろう

 とは、ノヴァーリスの言葉である。
 ノヴァーリスは、「神・人・自然」のトライアドを想定していたそうな。



 申楽は、軽業とかにも通じているらしい。「モノマネ・演劇。舞台」…ここら辺りのワードから、西洋の戯曲の「道化」を連想するのも、私にとっては仕方なし…。シェイクスピアとかの。
 道化は、作品の物語そのものには絡んでこないのが基本。つまり、作品そのものにとっては「無為」である。けれども、皮肉を言ったり、しかも核心(をつくような)言葉を口にする。物語の当事者の一歩外(あるいは、物語より上位、メタ)にいる。道化の言葉は、「象徴」である、「啓示」でもある。
 その点ではある意味、道化(wise fool)もまた、「神」でもあるのかもしれない。
 
 連想(アナロギア)、模倣(ミメーシス)、諧謔(パロディア)。これがギリシアのたどり着いた創作の三原則であった。何かを作り出すことは、何かから何かを連想し、模倣し、茶化し・・・つまりは言い換え、翻訳でもあった。
 思えば「fact」という語の語源は「つくりだすこと」。fictionやfactoryと、同じ語源。「事実」というのも、現実の全ての事象から、「何らかの意図」によって抽象化され、編集された「つくられたモノ」でしかないということ。現実の全ての事象の「言い換え」。factはfiction。




5、創り出すこと
 ようやく、「消費する者」「消費される者」の話に戻るのだけど。
 宮崎駿は、こんなことを言っていた。「一刻も早くiナントカを手に入れて、全能感を手に入れたがっている人は、おそらく沢山いるでしょう。あのね、六〇年代にラジカセ(でっかいものです)にとびついて、何処へ行くにも誇らしげにぶらさげている人達がいました。今は年金受給者になっているでしょうが、その人達とあなたは同じです。新製品にとびついて、手に入れると得意になるただの消費者にすぎません。あなたは消費者になってはいけない。生産する者になりなさい。」
 今のスマホとかipadとかに対して、駿さんの言葉。
 まぁ、極端な気がするけれど、最後の言葉は自分も大事だと思った。

 「生み出す者」。「何かを創り出す」、つまり創作が、この消費のシステムを開放の系にすることなのかもしれない。そして、多くの人々が、ソレを何とはなしに感じとっている・・・という気がしている。
 ただ、熱度は低い。

 Google chromeが初音ミクを起用したCM、感動した。同じように、感動した人も少なくなかったと思う。しかし、それはなぜか。色々あるだろうけど、最後の言葉が、やはり大事なんだろう。 
 「Everyone,Creator」。これが、人々の夢、共有される幻想。
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 初音ミクが人々の望んだ夢を全て抱えて世界に飛び去ったのと時を同じくして、「けいおん!」では、女子高生たちが、日常でセッションし続けたお茶の時間という、音楽的な調べを持つユートピアの和を、学年、学校を超えてロンドンにまで広げた。乗り越えるべき敵という役割(つまり父性「父親」)であるはずの人もその自分たちのユートピアの和に引き入れ、その輪広げて、世界まで輪に入れることができた。初音ミクと「けいおん!」は、通じている。それは、「音楽自身が願った夢」でもあるのだろう。


 それは、幻想。どちらも気を抜けば、消費のシステムで消費しつくされてしまう。また、友人の一人は「Everyone,creator」を、恐ろしいと言った。ネットワークの生み出した幻想なのだと。
 誰もがクリエイターだというのなら、作家たちも食えなくなる。それはまた、文化が守れないということではないか…という恐怖。しかし、それでもなお、やはり希望なのだ、と。
 「けいおん!」によって、演奏してみたい、バンドしてみたいと思った人が増えたように。初音ミクが音楽周辺人やイラスト周辺、動画作成の人々の心に熱をともしたように。初音ミクは、たった一つの機械の歌声だからこそ、クリエイターたちを前景化させるシステムである。
 嵐の曲、「誰が作ったか」を意識する人は少ないと思う。初音ミクは違う。「誰がつくったか」が重視される世界。背景にしか存在できなかった人が、前景となって出てくる。ある意味Radicalな希望。
 「多様性」が必要。多様であること。特権に従わないこと。自我以外の「声」に耳を傾けること。音を奏でたり、世界を彩ること。世界から何かを得て、そうして見つけた世界像を、また世界に対して作用していくこと。縁起者であり、また演技者であること。
 「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」


 そう、Radical Dreamersであればいい。

 そう、これまでだらだら言い続けたお話は、クロノ・クロスの話です。
 7割ぐらい本気で言ってます。
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