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 「少年」と「少女」の違いについてのお話。
 あくまで括弧つきの「少年」と「少女」です。「ジェンダー」というより、もっと根源、「セックス」的な「“性”質」についてのお話。


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以前、まどか☆マギカについてこのように書いた。

「魔法少女にとっては、世界にアクセスするモノとして、「閉じた人間関係と、自らが住まう町」、それで十分ということでもある。それが、世界への扉でもあり、経路でもあり、世界ののぞき窓でもあり、つまりはやっぱり、世界そのものでもある。魔法少女は「閉じた人間関係と、自らが住まう町」と接するだけで、世界の真理にたどりつけるのだろうし、そういう物語であって何の不足はない。」


 これ、正確な記述になっていない…どころか、全く違って真反対のことだったかもしれない、というお話。
 私は安易に「世界にアクセス」という言葉を使ったけれども、それに対し友人は、「少年にとって世界は向かうもの」だとしたら、「少女にとって、世界とは向かってくるものではないか」と言った。
 「ほとんど同じこと言ってるような…」と一寸思ったのだけど、「ベクトル」というものに意識を向けると、全く違うことに気づく。
 真逆のベクトル、つまりこういうこと。

 少年→世界

     世界→少女

 だから「世界にアクセス」というよりかは「世界がアクセス」ということ。
 これを大きな問題と扱いたい理由は、ベクトルが違うということは、すべてが反転していくことかもしれないから。
 だから、先の引用の部分で正しいところといえば、「つまりは、やっぱり世界そのもの」という部分だけかもしれない。「少女にとっては、近所こそが世界」の部分。だから、少女にとって世界は「たどり着く」ものでは全くないし、覗くものでもない。近所は、「世界への扉」ではなく、「世界への覗き窓」でもなく、とはいえやはり「世界そのもの」かもしれないということ。
 (「少女→近所→世界」という介在するものではないということ。「少女←近所(世界)」と書いた方がまだマシ)


 全身全霊投げ打って世界に剣を突き立てるのが少年なら、自らの寝室の中に世界を引き込んでしまうのが少女でなかろうか。
 まぁ、どうしたって静香ちゃんはのび太とドラえもんにどこでもドアで風呂場で裸を見られてしまい、しずかちゃんはキャーと叫ぶのだ。
 また、魔法少女たちのマスコットは、したり顔で少女の寝室で少女と同じときを過ごす。
 くしくも、のび太にとってのドラえもんと、魔法少女にとってのマスコットたちは、どちらも少年少女にとっての「魔法使い」という点で似ており、そしてまた決定的に違うのだろう。ドラえもんは泣きつくもの、マスコットは部屋に飾るぬいぐるみである。

 また以前、少年や少女に「変身」について、このようなことをぼやいていた。

「少年たちが、「世界と切り結ぶには、このままの俺じゃダメだ」とまさしく「身体を改造するという行為」(インターフェースの交換)を必要としたのに対し、少女たちは、「私のまま」、ただコスプレするだけで、鼻歌まじりに世界と出会うことが出来た」


 このとき、「コスプレ(異装)は、「インターフェース」とは違うのか」という疑問を受けたのだけれど、「インターフェース」という言葉、「少年」に似合い、「少女」に似合わない言葉だと思った。それが何故だったのかという理由に、ほんの少し指先程度触れられた気がする。
 それは、少年が世界に出会うときには「外殻」という程度の意味で「インタフェース」が必要だったのに対し、少女は世界そのものを自分の内側に引き込むのではなかろうか。殻の、内側。
 うまくいえないが、少年にとっての「変身」は、「世界と切り結ぶ刃を得る」ということであり、少女にとっての「変身」は、「世界で自分を飾りつける」とはいえないか。だから、仮面ライダーやウルトラマン(あるいはスーパーサイヤ人でもよいけれど)などの「異形に変身(メタモルフォーゼ)」「身体の変容」として描かれることが多く、やはり少女の変身というのウェディングドレスよろしく「異装、コスプレ」、「ペルソナ」として描かれるのではなかろうか。
 というわけで、やっぱり「つけまつける」は、男、中田ヤスタカが「一生懸命「女の子」を理解しようとして書いた」男目線の歌詞なのかもしれない。
 
 少女は、いつかその腹に子を宿す。それは、生命という一つの宇宙が、自分以外の生命、つまり異なる宇宙を包み込むことでもあるのかもしれない。

 まさしく、少年はペニス的な外殻で世界に刃を突き立てるのにのに対し、少女はヴァギナ的に世界を自らに引き入れる。


 これに関連して、剣道をやっていたときに学んだことなのだけれど。
 「男同士だとバチバチのガチムチのぶつかり合いになるのに対し、女とやると、どうも暖簾に腕押し、気を“すかされる”」…という現象について、どこかしこ、言及されていた。確かにその感覚は、自分自身にもあった。
 理由の一つとして挙げられていたのは、「男と女では気の流れが違うから」なのだと。男は背から腹の方に気が循環し、女は腹から背の方に流れている。
 当時はそこまで意識してなかったが、今は何となく腑に落ちることもある。男が背から腹、そして剣へと気を練り上げ、相手にそのまま真正面からぶつけるのに対し、女は自分の気を背側に隠し、そのまま見せない。
 面白いのは、「受身」という言葉では適切でないこと。攻めている、なのに、攻め気を見せない。剣気を見せないのに、背に充実させている…だとか。「受け」ではなく、「引き込む」という言葉の方が適切なのだろう。
 かくして、女性剣士は妙な剣気を纏うことになる。

 こうみると、「世界がアクセス」も適切な言い方でなくなってくるのかもしれない。世界を引き込む作用、つまり引力を持っているといえるから。(あるいは、世界の方がもつ強烈な作用力を引きいれるだけの力を自分の内側に(もしくは背側に)向けているのだろうか)
 逆に少年たちが、世界の形をゆがめるだけのを変革するだけの斥力を欲しがる。(あるいは、世界の方がもつ強烈な引力に逆らわないだけか)
 こうして、少年たちはロマンを口ずさむ。世界に対し己を作用していく展望。世界が少年たちを引き込む構図、例の戦闘民族であり、海賊王に俺はなるさんもそれだろう。バガボンド初期武蔵でもいい。少女たちは恋に恋する。世界が見つめる自分を内省する。
 少年たちは未来を語り、少女たちは今を口ずさむ。それは、前者が「過去を未来に引き渡す力(過去から未来を切り開く力)」であって、後者が「過去だろうが未来だろうが、すべて「今ここ」としてつむぎ出す力」いえるかもしれない。「あちらからあちら」と、「今ここ」の違い。
 だから、少年たちが今ここに集中するためには、ものすごい修行が必要になってくる。
 吉岡流。「今ここ」という極意を「いつか」修得するために訓練するのであるから、不思議な話である。
 武蔵、今この瞬間のど真ん中を掴みとるために、70人を超える人を切らねばならなかった。
 少年たちにとって、世界ははるかな海の向こうにあり、そのはるかな大地の見果てぬ夢を見て、旅立つのに対し、少女にとってはご近所こそが世界であり、「それ」を寝室にどのように飾るかが最も重要なのかもしれない。
 彼方のユートピアを探す少年と、ユートピアを自らの中に見出す少女。


 ここまでくると、「ボーイミーツガール」は、男側の論理の言葉ということに気づく。少年にとって少女は世界そのものであり、まさしく「出会う(会いにいく)」ものであるから。では、少女にとっては?
 
 クロノクロスは、やはり少年たち寄りの物語なのだろう。もちろん、そうでないところもたくさんあるのだろうけれど。「星という名の一個の卵」と「無数の生命という種子」という点とかもあるし、まさしく、プレイヤーが繰り返されるOPで、出会い続けるキッドこそが、生そのものであり、世界そのものでもあるのだから。
 果たして、世界というのは、卵であるのか、種子であるのか。
 
 とりあえずここまで。

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